明治末から昭和初期にかけての詩人、横瀬夜雨に「首をすげる」と題された随筆がある。
茨城県真壁郡横根村に生まれた夜雨が十三の頃に体験した、村始まっていらいの殺人事件についての回想なのだが、ごく短い文章で著作権も切れているので以下に全文を引用する。
私の村は大字が十一も集まつてゐるのだから、かなり廣いんだが、醫師が一人もゐない。
といふと如何にも片田合めくが、村はじまつて以來人殺しが一度あつたきり、昔も今も殺傷沙汰がすくない。只一度の人殺し、それは父親が息子を手にかけて、首をすつぼり取ってしまつたのだ。私の十三の時である。おてねんぶつの晩で女達が遲く歸つで來たのを知つてゐた。うとうとしてると、夜あけ近くなつてから、激しく木戶を叩かれた。川端の房次さんといふのがまつさをな顔で入つて來て、「丑が親仁に殺されやんしたよ」といふ。父は「何、丑がおや仁を殺したつて、あの野郎」「いや親仁が殺したんですよ。菜切庖丁で」「おーや、あべこべだね」でも着物を着て駆け出して行つた。「丑が殺されたとよ」「丑さんが、ああれ」女達も女部屋から起き用して來て、もう寝る所ではなくなつた。
丑は仕やうのないドラだつた。寝る目も寝ず働いて親仁が溜める、そばから掴み出しては小ばくちは打つ、茶屋狩はする。箸にも棒にもかゝらぬので、親仁の庄吉は思ひあまつてたゞ一人のむすこを殺してしまつたのだ。月のあかるい晩だつた。蟲が庭で鳴いてゐた。
夜があけるのを待つて、皆のあとから行つてみたけれど、ぢきには怖くて行けず、おひる時分にふるへながら木戶を入つて行つた。血だらけの疊、血だらけの障子、天井へも眞赤なかたまりが跳ねてゐた。緣側近くまで寄つて行つてのぞくと、五六人が立ちかゝつて、血だらけの死骸をおし据ゑて、首をすげるところだ。
前も後も分らぬほど血だらけの首を誰だか兩手でかざして持つてゐた。上下をそいだ一尺の靑竹を一人が肩と肩との間から、下へ向けて挿しこんだ。二寸程尖つたさきが出てゐる。其尖りへ首をすげて、はめようとしたがきしんで入らないらしい。ぐらぐらするのを片手であたまをはたはたと打つて、やつと竹へ突きさした。よく見ると血だらけの中からむくれかへつた肉のはしや、ささくれのやうに立てる筋が白く見えた。
何でまた、そんな物を見たのかといはれても當惑する。村中の親仁達が庭一杯立ちかゝつてのぞいてる下から、私達子供等はもぐりこんで見たのだ。巡査も四五人かたまつてゐたが、一人も追ひ拂はうちはしなかつた。大戶も入口には、菜切庖丁が血だらけのまま置いてあつた。刄渡り一尺はあつたろう。
あとで驚いたが、私はいつの間にか、はだしになつてゐたのであらう、足のひらに眞黑な血がこびりついてゐた。何處で踏んだか。
底本:「雪あかり (横瀬夜雨複刻全集. 随筆編)」崙書房 1974
なんとも奇妙な話だ。
思いあまってどら息子を殺してしまったにしては、菜切り包丁で首を切断というのは些か猟奇めいているが、それより気になるのは、村人達が先を尖らせた青竹を首と頭部の切断面に突き刺して、離れ離れになった頭部を胴体にすげたというエピソードだ。
おそらく、葬儀のために首が切り落とされたままはマズかろうという判断からなのだろうが、こういう行いは明治以前においては一般的(まぁ、首を切り落とされた死体は当時においてもレアケースだとは思うが)なものだったのだろうか?
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