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「ドグラ・マグラ」という言葉

Thu Sep 10 2026

方言としての「ドグラ・マグラ」

ドグラ・マグラ、この奇妙な響きを持つ言葉は、言わずも知れた夢野久作が10年もの歳月をかけ執筆した彼の代表作の書名であり、同時に同書に登場する書籍の名前でもある。
著者である夢野久作は『ドグラ・マグラ』という言葉について作中の登場人物(若林教授)に以下のように語らせている。

「……どういう意味なんですか……このドグラ・マグラという言葉のホントウの意味は……日本語なのですか、それとも……」 「……さあ……それにつきましても私は迷わされましたもので、要するにこの一文は、標題から内容に到るまで、徹頭徹尾、人を迷わすように仕組まれているものとしか考えられませぬ。……と申します理由は外でも御座いませぬ。この原稿を読み終りました私が、その内容の不思議さに眩惑されました結果、もしやこの標題の中に、この不思議な謎語なぞを解決する鍵が隠されているのではないか。このドグラ・マグラというのは、そうした意味の隠語ではあるまいかと考えましたからで御座います。……ところが、これを書きました本人の青年患者は、この原稿を僅か一週間ばかりの間に、精神病者特有の精力を発揮しまして、不眠不休で書上げてしまいますと、流石さすがに疲れたと見えまして、夜も昼もなくグウグウと眠るようになりましたために、この標題の意味を尋ねる事が、当分の間、出来なくなってしまいました。……といって斯様かような不思議な言葉は、字典や何かには一つも発見出来ませぬし、語源等もむろんハッキリ致しませぬので、私は一時、行き詰まってしまいましたが、そのうちに又、計はからず面白い事に気付きました。元来この九州地方には『ゲレン』とか『ハライソ』とか『バンコ』『ドンタク』『テレンパレン』なぞいうような旧欧羅巴ヨーロッパ系統の訛なまり言葉が、方言として多数に残っているようですから、或あるいは、そんなものの一種ではあるまいかと考え付きましたので、そのような方言を専門に研究している篤志家の手で、色々と取調べてもらいますと、やっとわかりました。……このドグラ・マグラという言葉は、維新前後までは切支丹伴天連キリシタンバテレンの使う幻魔術のことをいった長崎地方の方言だそうで、只今では単に手品とか、トリックとかいう意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。語源、系統なんぞは、まだ判明致しませぬが、強しいて訳しますれば今の幻魔術もしくは『堂廻目眩どうめぐりめぐらみ』『戸惑面喰とまどいめんくらい』という字を当てて、おなじように『ドグラ・マグラ』と読ませてもよろしいというお話ですが、いずれにしましてもそのような意味の全部を引っくるめたような言葉には相違御座いません。……つまりこの原稿の内容が、徹頭徹尾、そういったような意味の極度にグロテスクな、端的にエロチックな、徹底的に探偵小説式な、同時にドコドコまでもノンセンスな……一種の脳髄の地獄……もしくは心理的な迷宮遊びといったようなトリックでもって充実させられておりますために、斯様な名前を附けたものであろうと考えられます」

出典:『ドグラ・マグラ』夢野久作 1935

久作曰く、キリシタン由来の長崎方面の方言とのことだが、『全国方言辞典』東京堂出版 1975 (NDL) などをみても「ドグラ・マグラ」やそれに類する記載はない。また、国立国会図書館デジタルコレクションで「ドグラ・マグラ」を久作の小説が発表された1935年以前を対象に検索しても何もヒットしない。

では、この「ドグラ・マグラ」という言葉が夢野久作の造語かというとそうともいいきれない。

天保5年(1834年)に秋月藩の藩士であった平田望春の『秋月望春随筆』 巻之五所収の『秋月方言』(NDL)には当時の秋月(現在でいう福岡県朝倉市秋月地区)で用いられた方言がまとめられており、その中に「ドグラ・マグラ」という語も含まれている。残念ながら語意欄は空欄で、具体的にどのような意味で使われていたのかは判らない。しかし、少なくとも言葉自体は全くの創作でないことが窺える。

この『秋月方言』については、昭和46年に九州大谷短期大学の松田正義氏らにより追跡調査が行われており、「ドグラ・マグラ」についても言及されている。同調査報告には以下のように記されている。

全く見当がつかないが『ジテン』によると、熊本では怠け者やごくつぶしをドグラというと。調査の結果、少年はほとんど知らないが、老人の26%はその意味で使っている。

と熊本で使われている「ごくつぶし」という意味の方言「ドグラ」との関連が示唆されているとともに、この調査時点で既に若い世代にはほぼ死語と化していたことが読み取れる。

また、1970年刊の『山形方言辞典』(NDL)には「ドグラマグラする」という語が収録されている。

どグラマグラ・スル(サ) 進退きわまって右往左往する。北村東里・楯岡。宮沢

久作自身が述べた幻魔術や手品・トリックという意味とも『秋月方言』の怠け者とも異なる上、サ変動詞として記載されている。この語がいつ頃から使われているのか、秋月地方の方言や夢野久作の著作とどのような関係にあるのかは今のところ不明である。