山田風太郎の1945年6月の日記に、山田風太郎が街中で見かけた奇妙なポスターについての記述がある。
◯都内各所に貼られたる「絶対勝利確信運動本部」なるもののポスターの一に曰く、 「みな殺しにしろ、暗愚魯作糞人!」 なんと読むのかと思ったら、アングロサクソンと読むのだそうだ。新万葉。
出典:「戦中派不戦日記」山田風太郎 講談社文庫 2002
戦時中のプロパガンダポスターの一つだろう。
同じポスターに関する記述が沖縄史関連の著作で知られる作家、新里金福が書いた「わが近衛聯隊体験記」(「新日本文学 1975年11月号」掲載)という記事にあるのを見つけた。
続いて私の脳裡に、さっき部隊から駅へ急ぐ道すがら見た街の風景が、浮かんできた。そこには、焼けただれた電柱や人家の塀に、赤地に白抜きのビラがはりつけてあった。 ビラには「みな殺しにしろ、暗愚魯作業人!絶対勝利確信運動本部」と書いてあった。首をひねって近づいて見ると、「暗愚魯作糞人」には「アングロサクソン」とルビがふってある。それを読んだ時、私はその当て字の富意にひどく感心したものだった。それが、今、あらためて腹立たしく思い返された。
出典:「わが近衛聯隊体験記」新里金福「新日本文学 1975年11月号」新日本文学会 1975
こちらの記事でも、その「暗愚魯作糞人(あんぐろさくそん)」という差別的な当て字に感心?している。
このポスターを作ったらしい「絶対勝利確信運動本部」なる団体、検索してみても良く判らない。
アーナキズムの詩人・評論家であった岡本潤の「ひんまがった自叙伝1 罰当りは生きている」によると、横光利一の弟子で作家の菊岡久利が関与していたそうだ。
菊岡は『「悪者の詩」より』その他、毎号、型破りで息の長い放な詩をさかんにかいている。堂々たる体蠣をもった菊岡の奔放な性格には、たしかに女性にももてる一種の魅力があった。だが、男性的で豪傑肌ともみられる風采と融通性には、その後、かれが右翼の頭山秀三などに接近する素質を内包していたとも考えられる。太平洋戦争の末期、空築たけなわのころ、ぼくは新宿の焼けあとの濠にいた菊岡をたずねたが、そのとき、かれが「絶対勝利確信運動」という旗じるしを掲げて、「これが革命への最短距離ですよ」と言うのに驚いた。ぼくはその時、かつて神楽坂の料亭で、大化会員のKが、いっしょにやろうじゃないかと誘いをかけたときのことを思い出さずにはいられなかった。
出典:「ひんまがった自叙伝1 罰当りは生きている」岡本潤 未来社 1965
菊岡久利は早熟で中学在学中よりアナーキズムに傾倒していたが、戦時中、頭山満の三男の頭山秀三と知り合い民族主義に転向したようだ。ここら辺の経緯はさくっと調べた程度では良く判らない。
岡本潤に「これが革命への最短距離ですよ」などと語ったところから、菊岡久利の中ではアナーキズムから民族主義に転向したというよりも両者が何らかのかたちで共存していたのかもしれない。
菊岡久利が戦後に出した処女小説集「怖るべき子供達」の中に以下のような件があった。
A子はB青年に愛を成じながら、C青年と結活する場合もあらう。またB青年は全然初めてその夜合つたばかりか、しかも機と環境のせいもあつて、無愛も、結婚もしてみないD子と、異なるまぐはひをいとなむ場合もあるかも知れないのだ。私はかかる矛盾を、世界の現質としてじ生きてある。
私は天皇陸下を愛し、国旗を愛し、国歌を愛し、日本といふ国を愛する。その私が、社合親において、アナキズムを愛し、クロポトキンをいまも愛する。私生活においては、人道主義を愛し、トルストイを愛し、武者小路賞結を愛する。私の詩も私の青春もそこから生まれ、ここから展明する。矛盾の許容といふべきか。私は絶對に、いまの世紀では、矛盾を愛し、矛盾の青春に生きたいと思ふ。人々が、親念の世界で、割り切れたとすることのいかに哀れで、どんなに狭小な範園でしかないかを、知るときが来るであらう。
出典:「怖るべき子供達」菊岡久利 日比谷出版社 1949
Amazon : 「戦中派不戦日記」山田風太郎 講談社文庫 2002
NDL : 「わが近衛聯隊体験記」新里金福「新日本文学 1975年11月号」新日本文学会 1975
NDL : 「ひんまがった自叙伝1 罰当りは生きている」岡本潤 未来社 1965
NDL : 「怖るべき子供達」菊岡久利 日比谷出版社 1949
Wikipedia : 菊岡久利