江戸川乱歩が1931年「東京朝日新聞」に発表した随筆「人形」に1929年に東京荒川区で起こった人形に纏わる奇妙な話を書いている。
話はとぶが、それにつけて、ごく最近、私を非常に喜ばせた人形実話がある。今のところ、それが私が人形について心を動かした最後のものだ。
その話は、当時新聞や雑誌にものったことだから、詳しくは書かぬが、昭和四年の暮、大井某という人が、蒲田の古道具屋で、古い等身大の女人形を買求め、家へ帰ってその箱を開くと、生きた様な美人人形の顔がニッコリ笑ったというので、大井某は発狂してしまった。こわくなって、箱ごと荒川へ捨てると、水は流れているのに、人形の箱だけが、ぴったり止まったまま、少しも動かぬ。重なる怪異に胆を消した大井某の妻女は、又その箱を拾いあ げて、付近の地蔵院という寺へ納めてしまった。
調べて見ると、箱のフタに古風な筆跡で「小式部」と人形の名が書いてある。段々元の持主を探った所が、三十年程前に、熊本の或る士族から出たもので、その男は、この人形と二 人切りで、孤独な生活を営んでいたが、人形の髪なども、手ずから、色々な形に結ってやってたりするのを、近所の人が見かけた、ということまで分った。
更に人形の由来を聴くと、文化の頃、吉原の橋本楼に小式部太夫という遊女があった。同時に三人の武家に深く思われ、三人に義理を立てる為に、人形師に頼んで、自分の姿を三体 刻ませ、武家達に贈ったのだが、不思議なことには、人形のモデルになっている間に、当の小式部は段々身体が衰え、最後の人形が出来上ると同時に、息を引取ったというのだ。
出典:「人形」江戸川乱歩 1931
乱歩はこのエピソードがお気に入りだったのか、1975年に雑誌「キング」に発表した「フランケン奇談」という随筆でも取り上げている。
この事件?、乱歩曰く「当時新聞や雑誌にものったこと」らしいので、国会図書館デジタルサービスでそれっぽいキーワードでいろいろ検索してみたのだがヒットしない。乱歩の記憶違いにしては記述が詳細だし、もしかしたら乱歩の創作なのかも?という疑念もある。
自分で調べても埒が明かないので、駄目もとで地元図書館のリファレンスサービスに質問を投げてみた。リファレンスサービスを利用するのは今回が初めてでこんな質問受け付けてくれるんだろうか?と不安もあったが、キチンと調べて回答してくれた。凄いぞリファレンスサービス!
回答をそのまま公開して良いのか良く判らないので要点だけ抜き出すと、
- 新聞データベースや大宅壮一文庫雑誌記事索引で検索しても見つからなかった。
- そこで、立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターに調査を依頼。
- 立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターより、雑誌『武蔵野』第22巻第7号に「小式部人形を訪ねて」というこの事件に関するポタージュが掲載されている。との回答あり
と、図書館内で調べても不明だったため、わざわざ立教大学の江戸川乱歩記念大衆文化研究センターにまで問い合わせてくれたらしい。堺市立図書館のリファレンス担当と教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センターには感謝しかない。
回答にあった雑誌「武蔵野」の第22巻第7号は、国会図書館デジタルサービスの送信サービスで閲覧可能なので、さっそく記事を確認してみると乱歩が「人形」で書いているのと同じ内容が少し詳しく書かれているが肝心な部分が違う。
大井は先刻の人形を持ち歸り、箱の中を何氣なく覗いた。するとどうだらう、小式部人形は小気味に凄い形相で笑つたのであつた。而も美しいだけにより以上に味があつた。餘りの事に大井は、言葉も出ず、其儘全身硬直し時間が経つにつれて、心の亂れか遂に發熱して仕舞つた。妻女の驚き其れは唯事でなかつた。此事は近所にも知れ渡り、「屹度因緣ある人形の事だから、今の中に荒川でも投げて仕舞つては」、と衆議一決、値に値が出て買つた二十五園は惜しいが、夫の生命にはかへられないと思つて、暮の二十五日に人形箱を背負つて荒川に行つた。滂薄の空、凄惨の氣満てる荒川は、相變らず濁つて滔々と流れてゐる。人形箱を投げ込んだ。而し人形は流れゝばこそ、竿で急流に押しやつても流れず、氣の故爲か、反つて岸の方へ寄つてくる氣さへした。其は丁度深渦に見せた一種の無味な或る豫感!戦慄!を漂はせてゐた。止むを得ず、引上げて持つて歸り、方々の手で、林田雷次郎氏に無理矢理に押しつけ、逃げ歸つた。
出典:「小式部人形を訪ねて」中江純詮 & 朝長淸純 「武蔵野」第22巻第7号 1935年
と、こちらの記事では人形を買い取った大井なる人物は確かに人形を笑うのを見て「餘りの事に大井は、言葉も出ず、其儘全身硬直」するぐらいショックを受け熱を出してしまうが、「発狂」までは至っていない。発狂の誤植の可能性もあるが前後の文脈からしてその可能性は低いように思える。乱歩の記憶違いだろうか?
この「小式部人形を訪ねて」というルポが「武蔵野」に掲載されたのは1935年で乱歩が「人形」を発表した4年後にあたる。乱歩は「当時新聞や雑誌にものったこと」で知ったと思われるので、事件当時の報道ではどうだったのか?
「小式部人形を訪ねて」には
丁慶共頃、東京日日新聞(昭和四年十二月二十八日、夕刊)に出て、大いに喧傷され、「舞臺」「文藝倶楽部」の雑誌にも出、意々怪奇を誘つたのである。
出典:「小式部人形を訪ねて」中江純詮 & 朝長淸純 第22巻第7号 1935年
との記載がある。残念ながら国立国会図書館デジタルコレクションでは「舞臺」も「文藝倶楽部」も見つけることはできなかったが、「東京日日新聞」であれば毎日新聞のデータベース「毎索」で検索できるようだがそれには図書館まで足を運ぶ必要がある。しかたないので暇を見つけて出かけることにしよう。面倒だけど・・・・・・
もう一つ気になる人形の行方だが、記事によると当時の荒川区三河島八丁目一六七九番地の地蔵尊に奉納されたとある。WEBでざっと調べた感じでは現在、荒川区に小式部人形がある地蔵尊を見つけることは出来なかったので、その後の戦争等で失われてしまったのかもしれない。これも荒川区の郷土史などを調べれば何か判ったりするのだろうか?
追記(2024-06-17)
その後、図書館で「東京日日新聞」にこの件についての記事が掲載されているのか調べてきた。
(続・人形が笑って発狂した大井某の話)
Links
江戸川乱歩の随筆「人形」と「フランケン奇談」はどちらも光文社文庫版の「江戸川乱歩全集 第24巻 悪人志願」に収録されている。
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