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続・人形が笑って発狂した大井某の話

Mon Jun 10 2024

以前の「人形が笑って発狂した大井某の話」の続き。

雑誌「武蔵野」第22巻第7号に掲載された「小式部人形を訪ねて」という記事に

丁慶共頃、東京日日新聞(昭和四年十二月二十八日、夕刊)に出て、大いに喧傷され、「舞臺」「文藝倶楽部」の雑誌にも出、意々怪奇を誘つたのである。

出典:「小式部人形を訪ねて」中江純詮 & 朝長淸純 第22巻第7号 1935年

という記載があるの知り、炎天下の中えっちらおっちら図書館まで出向いて「東京日日新聞」を調べてみたところ、該当の記事は確かに掲載されていることが確認できた。(「舞臺」「文藝倶楽部」に関しては国会図書館にもないっぽい)

以下、その記事の全文。

人形怪談 小式部物語り 淋しい丸髷の年増

三河島蓮田一四〇小道具屋小林文平の暮れの立場へ、あたま、胴、脚が三つの箱へ分けられて入つてゐる古い人形が出た。見たところ廿六、七の淋しい表情の女、丸髷を結つて薄紫の手柄をかけてゐる、つないだら五尺三、四寸の大きさにはなる

「生きてるやうだなア」と道具屋さん達一斉に、かういつた、そして大井金五郎(假名)が廿五圓までセリ上げて買ひとつた、道具屋がうらやましがつて代わるがわる箱を開いて見てゐたが「魂がこもつてゐる、何か、かう恨んでゐるやうだ」と誰となくいひ出して、しまひには箱のふたへ手をかけるものもなくなつた

金五郎が、三つの箱をかついで家へ戻つた時は、もう日のくれ方、薄暗い電燈の下で改めてまた箱を開くと「わあツ」といつて顔をおほつた、女の人形が、ぢつと箱の中から金五郎を見て、淋しい、今にも泣き出しさうな顔をして少し微笑しやといふのである

それから金五郎は気が違つたやうになつてあばれ廻った、近所の人の話では裸で往来へ出たり、飛んでもない事を口走つたりしたといふが、今はぷらぷら病ひの気味で床についてゐる、最初に診察した天沼医師は「何か大きなショツクを受けたものです、昔なら或いはタタリとでもいふのでせうか」といふ

かみさんは人一倍気丈だが、どうも二度とこの人形の顔を見る事も出来ない、そのまゝ近所の人にたのんで、一緒に三つの箱を、荒川へ持つて行つてほうり込んだ、早い水の流れだ、すぐに箱は濁流へと思つたら水音がしたゞけでぴたりツとそこへ(1文字不明)りでもつけややうに一尺、一寸も流れては行かないぢツとしてゐる箱、それを見詰めてゐるるみんなの顔、眞靑であつた

どうしても流れない、仕方がないのえ翌日これを町屋の火葬場の前にある地蔵院へ運んで、この寺へ納めて永代供養をしてもらふ事になつた、住職の森徹信氏ふぁ、よく箱を調べると「小式部」といふ古風な筆蹟の人形の名が書いてある。これを不思議に思つて段々調べると最初に小林の立場へ出したその人形の持主は、同じ町屋の林田雷二朗といふ老人と判明した

林田老人は卅年前に手に入れたといふ、それがしといふ熊本の士族が秘蔵してゐたもので、その士族がたつた一人で、この人形を暮らしてゐた。よく女形の髪を結つてやつてゐるのを林田老人も見たといふのである。人形にしては珍しい丸髷のいはれもこれでわかつた。

當時その人の話しに、これは文化のころ吉原の橋本楼の小式部太夫といふ遊女の姿で、小式部が三人の武家に思はれ、互に主家も浪々する程の通ひつめから、太夫も義理が立たなくなり、ある人形師にたのんで自分の生き人形三體をつくらせた。人形師が吉原へ通つて頻に小式部の顔をにらんで製作してゐる年頃から、小式部はひどくやつれだし、いよいよ最後といふ日に出来上つた自分の顔を見つめつゝ遂に息が絶えてしまつた。

遺書によつて、その三體が三人の武士に贈られたのは勿論で、その中の一體が即ち、これだといふのである。題して「昭和怪談人形」一席の終り(寫眞は小式部人形)

小式部人形の顔

「東京日日新聞」1929年12月28日(夕刊) より

記事の内容は乱歩の「人形」や「小式部人形を訪ねて」で述べられているものとほぼ同じ。乱歩の随筆「人形」では大井金五郎は発狂したことになっていたが、「武蔵野」掲載の「小式部人形を訪ねて」では発熱と記載されており違いが気になっていたが、「東京日日新聞」では

それから金五郎は気が違つたやうになつてあばれ廻った、近所の人の話では裸で往来へ出たり、飛んでもない事を口走つたりしたといふが、今はぷらぷら病ひの気味で床についてゐる、最初に診察した天沼医師は「何か大きなショツクを受けたものです、昔なら或いはタタリとでもいふのでせうか」といふ

「東京日日新聞」1929年12月28日(夕刊) より

という感じで、乱歩が「発狂した」と記したのもあながち間違いとは言い切れない記述になっている。

ちょっと気になるのが、この記事が一般の報道記事とはことなり「歳末コント」というコラム的な記事になっていること。